石原産業の歴史挑戦・変革への軌跡
1920年-1945年DNAとして受け継がれる「挑戦心」
創業者 石原廣一郎
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1920
マレー半島での鉄鉱山を事業化。
創業から世界を舞台に数々の難題に挑んだ。ある小さな発見から、石原産業の100年に及ぶ挑戦は始まりました。創業者の石原廣一郎は、シンガポールに初めて上陸した際、歩道の砂利が赤茶色をしていたことから鉄鉱石の存在を直感。なんとしても鉄鉱山を自力で開発し祖国の産業発展に尽くしたいとの情熱から、南国の猛獣や悪疫と戦い事業化の道を切り拓きました。そして1920年、大阪市西区に「(資)南洋鉱業公司」を設立。これは邦人が南洋鉄鉱の開発に乗り出した最初の巨歩と称され、未踏に挑む挑戦心がDNAとして芽生えることになったのです。
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1924
鉱石の自社輸送を開始。
ISKの社旗をひるがえした社船が活躍。1924年から着手したマレー半島のケママン鉱山開発と同時に、鉱石の自社輸送に乗り出しました。事業発展とともに、1929年「石原産業海運(資)」と社名を改め海運業に進出し、最盛期には15隻12万tを持つ中堅船主へ成長。1934年に株式会社に改組し、石原廣一郎自ら初代社長に就任しました。
日本の南洋開発政策に呼応するように、ジャワ航路開設やマレー半島新鉱山開発、フィリピン、海南島の地下資源開発など南方事業を拡大。事業所は東南アジアで20ヵ所以上に及び、開発と貿易振興の面から日本経済の発展に貢献しました。 -
1934
紀州鉱山の開設、1941年四日市工場の稼働により、
国内事業の礎を築いた。国内では紀州鉱山、神美鉱山など次々と開発に着手し、積極的な事業展開に乗り出しました。1941年1月には、紀州鉱山に近い四日市に銅精錬所を建設し、銅電解工場、硫酸工場、過リン酸石灰工場が稼働しました。当時世界一の高さを誇る185mの大煙突も同時期に建設、産業都市四日市のシンボルとなりました。
また、肥料部門進出、海運業譲渡と事業内容が変化するとともに、1943年「石原産業(株)」へと社名も変更。
やがて終戦を迎え、当社は海外事業の一切の権益と国内の多くの工場設備や鉱山を失い、戦後の厳しい試練に立ち向かいました。
1945年-1960年新時代の幕開け
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1950
有機化学の原点、農薬事業に進出。
選択制除草剤のパイオニアとなる。終戦直後、当社は海外事業の全てを失いながらも、かろうじて残った四日市工場を修復し、硫酸と肥料の生産から再起を図りました。硫酸は生産復興の基礎資材として貢献するとともに、肥料の主原料にもなり、戦後貧窮していた食糧の増産に懸命に応えていきました。
そんな中、米国で誕生した世界最初の「除草剤」2,4-Dに着目し、1950年に除草剤工場を建設、生産をはじめました。これはイネ科の植物にあまり影響を与えず雑草のみ枯らすもので、稲作農家を苦しめていた炎天下での過酷な手取り除草から解放する画期的な製品になりました。さらに1960年には国産第1号となる除草剤を自社開発し、日本の農業に近代化の道を拓いていきました。 -
1954
無機化学の原点、酸化チタン事業に進出。
国内トップメーカーへ。硫酸を原料とする新たな活用法を模索していた当社は、「酸化チタン」に今後の需要増を見い出し、1954年、米国からの技術導入をもとにした硫酸法酸化チタン工場を完成。農薬に続く新規事業として操業を開始しました。
それまで高品質な酸化チタンは日本製のものがなく高価な輸入品に依存していたため、多くの国内ユーザーに歓迎されるとともに、早くから海外へも市場を広げていきました。 -
1958
経営の重点は鉱山から化学品へ移行。
四日市に研究所を開設し技術研鑽を重ねる。産業復興の一翼を担った鉱山事業ですが、1954年、新規の酸化チタン事業を軌道に乗せるため、国内最高品位を誇る妙法銅鉱山をやむなく売却することになりました。この苦渋の決断は、のちに当社が世界的な酸化チタンメーカーとして成長発展していくための大きな分岐点となりました。
こうして、当社の経営は、起業のきっかけとなった鉱山事業から、高度成長を支える化学品事業へと舵を切る形となりました。そして1958年には四日市に研究所も構え、さらなる新技術創出のチャレンジに取り組みました。
1960年-1990年世界市場へ躍進
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1970
環境対策に全力で取り組み、
世界の業界に先がけて総合排水処理施設を完成。戦後の混乱を乗り越えた日本は、高度経済成長の影で環境汚染問題の渦中にありました。1967年の公害裁判では当社を含む四日市地区の化学工場群6社が告訴を受け、敗訴。当時技術的に困難であった環境対策に全力で取り組みました。1970年には世界の業界に先がけて、総合排水処理施設を完成。この莫大な投資負担から業績不振に陥り、事業継続のため、1978年国内事業発祥の紀州鉱山を閉山し、独自製法で特色のあった肥料原料の生産も停止するなど、大幅な合理化を余儀なくされました。こうした状況を真摯に受け止め、地球規模の環境保全の一層の強化に取り組みました。
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1973
農薬市場の環境変化に耐え、自社開発強化に邁進。
満を持して世界市場に舵を切る。農薬事業は1967年の政府の資本自由化政策により欧米メーカーとの技術競争が激化。減反政策、農薬取締法改正など、激しい環境変化に直面。そんな中、自社開発にこだわる当社は1973年に除草剤「エックスゴーニ粒剤」を上市。売上に大きく貢献し、その後の有機部門国際化の基盤となりました。
1974年、「総合農薬企業として世界的発展を目指す」との基本方針を掲げ、国内専業から世界市場開拓へと大きく舵を切ります。新規薬剤・有機中間体の研究に取り組み、次々と大型新規農薬を市場に送り出し、1984年には有機化学事業の年間売上高が国内専業時の約3倍にまで伸び、農薬事業は当社の主力事業のひとつとなっていきました。 -
1974
酸化チタンの急激な国内外の需要を受け、
生産設備を増強。世界の主力メーカーに。1954年操業開始の酸化チタンは、目覚ましい高度成長にともなう需要増に応じて生産能力を拡大し、1965年頃には国内需要の約40%を占めるほどになりました。さらには1974年に環境負荷のより低い国内唯一の塩素法※酸化チタン工場を操業し、世界各地に出荷を開始。1989年には海外生産拠点としてシンガポールにも工場を新設しました。当社の酸化チタン「TIPAQUER(タイペーク)」の名は国内外に広く知れわたり、世界屈指のメーカーへと成長していきました。
※高度な技術を要し、産業廃棄物の排出量が少ない製造方法
1990年-2010年地球の一員としての社会的責任
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1999
医薬品分野に進出以降、遺伝子治療ビジネスなど
ライフサイエンスにチャレンジ21世紀の幕開けを前にした1998年、GMP※対応の医薬原薬工場が完成。農薬事業で培った有機合成技術を活かし、翌1999年より医薬品原薬の製造を開始しました。また、バイオテクノロジー関連への事業展開として、2000年に遺伝子機能解析用試薬の独占的ライセンスを取得、専用設備(HVJ-Eプラント)を建設し、2002年より「HVJ-Eベクターキット」の製造・販売を開始しました。こうして、高齢化をはじめとした様々な社会課題に応えるべく、ライフサイエンス事業の拡大を図っていきました。
※医薬品等の製造品質管理基準 -
2005
フェロシルトの自主回収を決定。
10年かけて全量撤去し最終処分完了。酸化チタンの製造工程から副生する「フェロシルト」は土壌埋戻材として認定され、2001年より販売を開始しましたが、河川汚染の指摘を受けて2005年4月に製造・販売を中止しました。同年6月に対策委員会を設置、翌月7月には全量撤去を目指して自主回収を開始しました。健康被害は認められなかったものの、フェロシルトの埋設土壌からは基準値を超える六価クロムが検出されるなどしたため、社会的信用を失う事態となりました。約72万トンのフェロシルトは土砂と混じって使用されたため、総回収量は約187万トンに上りました。販売年数が古い現場では特に発見が困難で、回収には約10年の歳月と、総額600億円を費やすこととなりました。2015年3月に45ケ所の埋設地全ての撤去を終え、同年12月に最終処分を完了しました。
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2008
コンプライアンス総点検の結果を公表。
全社一丸となり信頼回復に努める。社会からの信頼と財務基盤の回復のためには悪しき企業体質の浄化が急務として、2008年3月に当社グループ全従業員を対象としたアンケートをもとに「コンプライアンス総点検」を行いました。回答内容について責任は問わないこととし「正直な」回答が得られるようにして情報を収集し、同年5月に結果を公表しました。虚偽報告や違法行為等の案件からセクハラ・パワハラ等の諸問題まで膿を出し切り、さらにはコンプライアンス教育、組織体制の強化、外部への積極的な情報公開などを徹底することで企業体質の改善を促進し、現在においても再発防止に努めています。
2010年-2020年強くて、信頼される
ケミカル・カンパニーへ
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2010
汎用品から高機能・高付加価値な製品へシフト。
超耐候性酸化チタン本格販売開始。中国では約70社もの硫酸法メーカーが生産能力を拡大し、低価格を武器に日本やアジアなどで当社シェアを脅かしました。そうした中、2010年、独自の製法技術による「超耐候性酸化チタン」の本格販売を開始するなど、酸化チタンの高機能・高付加価値品へのシフトを図りました。
現在においても、酸化チタンは汎用品から高機能・高付加価値品への開発、販売に軸足を置いて展開しており、また、機能材料は需要の旺盛な電子部品材料や導電性材料製品の生産能力増強に注力しています。 -
2015
ブラジル、インドなどでの農薬市場の開拓。
グローバル競争力を強化する。世界的に食の安全・安心への関心が高まる中、より安全で効果の高い農薬が求められるようになりました。これにより農薬登録制度が厳しくなり、また、安価なジェネリック製品が台頭するなど、農薬業界は変化の時を迎えています。そうした中、今後農薬需要の伸びが見込まれるインド、中国およびタイに現地法人を設立、さらには世界最大の農薬市場であるブラジルの農薬販売会社へ資本参加するなど、自社剤の普及拡大と販売強化に取り組んでいます。また、ジェネリック製品への対応として、農薬原体の生産拠点を国内から韓国、中国へ、そしてインドへと移行していくこととなりました。
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2020
創立100周年。これまでの感謝とともに
皆さまとよりよい未来を目指していく。近年では、無機化学事業の酸化チタン・機能性材料、有機化学事業の農薬に続く「第三の柱の事業」として動物用医薬品を位置付けています。動物用医薬品は、2018年に世界初となる犬用抗膵炎剤の国内製造販売承認を取得し、自社での販売に加えて同製品の原薬を共同開発先に供給しています。(その後、米国食品医薬品局(FDA)の条件付き承認を取得し、2023年より米国での販売を開始)
当社は2020年に創立100周年を迎えました。すべてのステークホルダーへの感謝を胸に、これからも、逆境に負けない不屈の精神で世界を舞台に絶えず化学反応を起こし、新しい価値を提供し続けます。
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